【No.】 681
【ストレッサー】 涙が枯れた祖母との別れ
【内容】 大切に思っていた祖母が亡くなったのに、涙が一粒も流れずに、自分のことを薄情な人間だと思ってしまう
【分類】 E 身近な出来事
【効果】 ★★★
【対処法】 父親のせいで子どもの頃はずいぶんと泣かされ、一生分の涙を流したので、もう涙が枯れてしまったと考えるようにする
【ストレッサー型】 3 クヨクヨ過去悔恨型
【解説】今から20年ぐらい前の初秋の頃、深夜3時過ぎに病院にいた母から電話があり、祖母が亡くなったということでした。祖母はそれまでに何回か入退院を繰り返しており、恐らくこれが最後の入院になるのではないかと皆が思っていた矢先のことでした。小生が大人になってから、一番悲しかった出来事だったと思いました。
病院まで自転車で10分ぐらいで行けるのですが、深夜ということもあり、周辺も暗いのでタクシーで行こうと思いましたが、時間帯が悪くてなかなかつかまらず、病院まで歩いて行くことにしました。
徒歩では病院まで30分くらいかかったような記憶があります。祖母との思い出が走馬灯のように蘇ってきました。小生は少年時代に壮絶な人生を送ってきたと思いますが、貧しい中でも祖母がいろいろと金銭的にサポートをしてくれておりました。
18歳の時に家出をして、父と離れて別々の人生を歩みだしてから、大学生の時は4年間、祖母と同居をしてアルバイトをしながらの学生生活でしたが、祖母がいろいろと面倒をみてくれておりました。就職後は一時地方都市におりましたが、退職して首都圏に戻ってきてからは、母の実家の近くにアパートを借りて、食事の面倒をみてもらっておりました。
さらに、母も父と別居してわかったことですが、父が母の年金を20年も支払っていなかったことがわかりました。父は自営業で、自分の年金は毎月きちんと支払っていたのですが、専業主婦の母の分は全く支払っておりませんでした。
母を仕事の電話番にさせていたのですが、無報酬で年金の支払いもないなんて、母のことを奴隷扱いのようにされて非常に残念に思いました。不憫に思った祖母は、20年分の年金未納分を一括で支払ってくれました。現在の貨幣価値にすると約400万円になるかと思います。
そんなことなどを思い浮かべながら、夜道の急坂を登りきって30分ぐらいで病院に到着しました。泣き虫の母が泣きじゃくっていたら、どうしようと思いながら病室に到着したら、母が病室の前のソファーに座っており、祖母が霊安室に移動したということで案内されました。
霊安室では線香が炊かれており、穏やかな顔で眠っている祖母を見ました。弟もやってきました。そして、深夜にも関わらず、主治医もお休みのところ挨拶に見えました。喪主は母の一番上の弟の叔父が務めて、葬儀場もすぐ近くの場所に決まって、早速、祖母が移動することになりました。午後からは、祖母の死を悲しむかのごとく雨が降り出しました。
通夜は翌日でしたが、午前中は大雨に見舞われました。午後になると、雨があがって妻は喪服がなかったので、午後に近所のスーパーマーケットで既製品を運よく購入し、そのまま、タクシーで葬儀場に向かいました。すでに親戚一同が集まっておりました。
通夜は文字通り寝ずに親戚の人たちと雑談をしながら、過ごしておりました。そして、葬儀が終わり棺の中の祖母との最後のお別れがあり、子どもたちである母や叔父たちはみんな涙を流して、嗚咽を漏らして悲しんでおりました。しかし、小生と弟は涙が全く出ませんでした。ただ見ているだけというのが、自分ながら薄情に感じて嫌でたまりませんでした。
今振り返ると、父親のせいで子どもの頃はずいぶん泣かされました。その時に一生分の涙を流してしまったような気がします。毎日のように父の言動により、辛さや悔しさ、さらに、悲しみや苦しみは壮絶なもので、母は堪えきれなくなって毎日のように泣いておりました。
涙が枯れてしまったのか、大切な人が亡くなっても涙を流せない、心の冷たい人間になってしまったのではないだろうかと悩んでしまいました。しかし、心の中では、涙の代わりに悲しいメロディがずっと流れておりました。あるドラマのBGMとして使われていた「哀惜のバラード」という曲でした。
いつもお読みいただきありがとうございます。
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